■沈黙の証言
監督用にと宛てがわれた部屋にあるそれは、かつては理事長室にあったものだと春奈は記憶していた。
昔、夏未を訪問した時にこの席に座って紅茶を御馳走になったり他愛ない話をしたりした思い出がよみがえる。
まさか、十年経ってもここに座るとは思わなかった。
久道との打ち合わせは部員が帰った部室で、円堂とはグラウンドでついでといった形でする事が多かった為、実質この部屋が使われる様になったのは「彼」が監督として座してからだ。
「兄さんは勝手だわ」
懐かしい記憶と数日間の苦しみが混じり合う。
一日中履いていたパンプスを乱暴に脱ぎ捨ててソファの上で膝を抱える。
「すまなかった」
この四日間、閉じられる暇がない程に叩いていたパソコンから顔を上げた鬼道は心からの謝罪を送る。
しかし、それが自分が求めた意味のものではない事位、春奈はわかっている。
「私にくらい教えてくれてもよかったじゃない」
「お前と俺では役目が違うだろ」
監督となった鬼道と顧問である春奈では持つべき責任と活躍する場所が違う。
コーチであった頃は鬼道も作戦の解説や円堂が見切れない選手のフォローに回っていたが、円堂がいなくなった雷門で彼の代わりになる事は大変な事だ。
彼らを勝利へ導く為にしなければいけない事も課題も恐ろしい程に山積みになっている。
だから鬼道は必死に前を向いた。
本当は、彼らのように去っていった円堂を振り返りたかった。縋りたかった。
しかし、それは許される事ではない。彼は、鬼道に雷門を任せて動いたのだから。
「でも……本当に怖かったのよ」
顧問ではなく妹として、不安で仕方がなかったあの時の感情を吐き出した春奈に、鬼道は椅子から立ち上がり、彼女の頭を優しく撫ぜた。
「……飛鷹にも言われたよ」
「飛鷹さんに?」
「どうやら、天城と西園と影山は雷雷軒に居たらしい」
呆れたように眉を下げて笑った鬼道の口から出たひとつの名前に春奈は無意識の内に唇を噛んだ。
と、同時に、扉が叩かれた。入室の許可を出した鬼道の前に、タイミングを見計らったように彼は現れる。
「し、失礼します」
藍色の髪がふわりと揺れる。
「輝くん……」
二ヶ月前にサッカーを始めたというのに、先日の白恋との試合では雷門の窮地を救った一点を決めた。まるで天から与えられたような才能は今まで埋もれさせていた事がとても勿体ないと感じる程だ。
「……何の用だ」
鬼道の声が静かに響く。肩を震わせた輝は太い眉を下げて、頭も下げた。
「あ、あの!練習さぼって、すいませんでした!」
「……」
真っ直ぐな謝罪に、返されるものはまだない。
しかし、輝は頭を上げる事なく続ける。
「その……俺、サッカー好きなんです!辞めたくないです!」
「……誰も辞めろなどとは、言ってないが?」
「そうよ、どうしてそんな事……」
手を伸ばした春奈は、入部を願った時の彼を思い出して、その手を止めた。
彼の名前には、深くて暗い、過去がある。
それは、今の時代には風化してしまったものだが、春奈はそれを忘れる事はないだろう。
多分、一生。
そして、彼もそれを知っている。
春奈の隣にいる鬼道は、それ以上に。
「影山」
しかし、鬼道はその名前を同じ声で呼ぶ。
「は、はい!」
呼ばれた輝は叫ぶように返事をする。
腕を組んだ鬼道は、碧の向こう側から彼を射る。
その瞳には幻が見えているのか。それとも、未来が映っているのか春奈は知らない。
「……次も勝つぞ」
「……はい!」
勝利への決意を交わしただけで、許されたと知った。
輝が嬉しそうにひとつ頭を下げて、背を向ける。
小さな背はやはり『彼』とはまったく似ていなかった。
「輝くん……いい子ね」
「本当に……似てないな」
張り詰めていた空気が緩む。
鬼道の眉が泣きそうな弧を描いた。
(本当に、いつも勝手なんだから……)
隣に立った春奈は言いたくて仕方のない言葉を閉じ込めた。
雷門は勝ち進まなければいけない。
それは、本当のサッカーを取り戻す為に必要な事で、甘い事など言っていられない。
だから、彼らには重い責任を負わせてしまうのだ。
だからせめてと、鬼道はどんな暴言も嘲笑も受け止めた。なにひとつ、反論も説明もする事なく。
しかし、その姿は。
言葉少なくスーツの裾を翻した彼の背中は。
(兄さんの方が、……影山にそっくりよ)
鬼道は、兄は、昔から恐ろしい程に春奈に優しくて、それ故に残酷だった。
本当に辛い事も、大切な思いも全てを閉じ込めて背格好だけ大きくなった彼は、やはり何も変わらない。
今日も、春奈には何ひとつ吐いてはくれなかった。
「兄さんの、ばーか」
拙い、精一杯の暴言を投げる事しか彼女に出来る事がなくて、泣きたくなった。