■ターミナル

夕方の空港はどこか忙しない。
団体で固まっている彼らをスーツ姿の男性が酷く邪魔そうな瞳で睨む。それに睨みを返そうとする倉間を止めた速水は落ち着きなく周りを見渡した。
吊るされている案内だけを頼りに前を歩く円堂も首を傾げている。つい最近までプロリーグで活躍していたのだから数え切れない程、飛行機自体は乗っているだろう。
しかし、迎える側としては初めてなのかもしれない。

「円堂監督……あの、時間……」

広場に大きく存在を主張している時計を見た影山は不安そうな声を出す。既に掲示板からは目的としていた便は消えている。着陸は終えてしまったのだろう。これから入国審査を受けて、預けていたトランクを受け取って、ゲートに出てくるまでの細やかな時間が彼らに残された猶予だ。

「大丈夫だ、輝!ほら!」
 
隣に立つ音無と共に、どうにか目的地を示す案内板を見つけた円堂は子供たちに笑顔を見せる。太陽のような笑顔に彼らは一斉に駆け出した。
円堂守は、やはり天から与えられた絶対的なチャンスを逃さない能力があるのだろう。
影山たちが丁度そのゲートに着いた時、いくつかのスーツに紛れた彼は、大きなトランクを引いてこちらに降りてくる途中だった。
いつも通り、しっかりと着込まれたスーツのポケットに片手を入れて歩く姿は凛としている。最後に見た時は上の方でくくられていた髪は、全て下ろされていた。それが少しだけ新鮮だったけれども、それ以上に懐かしさと歓喜が湧き上がる。

「鬼道さん!」

影山が叫ぶよりも早く、松風が彼の名前を呼んだ。あ、と思った時にはもう遅く、松風に続くように西園が、浜野が、神童が、勢いに背中を押されたように駆け出していった。

「鬼道コーチ!」
「おかえりなさい!」
「セリエA優勝おめでとうございます!」

突然呼ばれた名前とまとわりついてきた温かさに、サングラスの奥で鬼道は赤い目を大きく見開いた。驚く彼に、神童は持っていた花束を押し付ける。分厚い緑はあの日と変わらないそれだ。

「お前たち、どうしてここに……」
「ごめんっ、どーしてもって言われてさ、フィディオに飛行機の時間、聞いちゃった」
「円堂……!フィディオめ……次に会った時は覚えておけ……」

盛大に溜息を吐いてみせた鬼道だったが、本当に怒っている訳ではない。
騒がれる事が嫌でマスコミや関係者、友人たちにまで飛行機の時間を伝えなかった鬼道だったが、空港まで送るからと強引に車に押し込めた白い流星の手だけは逃れられなかった。
元々、彼の熱意と燻り続けた想いがきっかけで鬼道はイタリアのリーグに身を置く事を決めたのだから仕方がない。日本の中学サッカー界を救う為に一度は離れていたが、その後、引退試合の為にイタリアに帰った鬼道は見事にフィディオと始めに約束をしたそれを守り通してみせた。彼は、イタリアリーグの頂点を取ったのだ。 それは日本でも大ニュースとなった。
勿論、雷門イレブン達も画面に縋り付くように一部始終を見届けた。画面の中でボールを操る鬼道に、何度も感嘆の息を吐いた。
彼がフィールドに立つ姿を観るのはこれが最後になってしまうという事が勿体なくて、試合が永遠に終わらなければいいと感じてしまう程だった。

「兄さん、お疲れ様。持つわよ」
「いや、大丈夫だ春奈……」

右に引いているトランクの持ち手を強引に奪おうとする妹を必死に制す鬼道だが、音無も譲らない。その光景が微笑ましくて円堂は笑った。

「ほら、こんな所でなんだからさ!」
「ちゅーか、ここで溜まってたら目立つっしょ?」
「鬼道さん、有名人ですからねー」

騒がしい塊をいぶかしげに眺める人の中からは、もしかして、という疑問も浮かび始めている。鬼道だと気づかれる前にここから退く事が優先だろう。
攻防の末にトランクを奪われてしまった鬼道は大変申し訳なさそうな顔をして、かつての教え子たちを見た。

「いや、実は……お前たちが来ているとは知らなくてな……」
「鬼道!」
「鬼道総帥!」

声がした方へ顔を向ければ、そこには鬼道の隣に立つ事を許された影が今にも泣き出しそうな顔をしていた。

「佐久間……それに帝国の」

円堂の言葉など耳を通り抜けてしまったのだろう。ろくな返事もしないで鬼道へまっすぐに飛び込んでいく。

「総帥お帰りなさい!やはり貴方のサッカーは素晴らしいです!俺、最後のフィディオ選手に繋ぐパスが……」
「雅野、久しぶりなのはわかるが少し落ち着け」
「佐久間コーチだって五月蠅かったじゃないですか……」

相変わらず帝国の空気に、鬼道は眉を下げて笑う。

「と、いう訳だ」
「なんだあ、それなら佐久間と先に連絡取ればよかったな」
「すまないな円堂。ちょっとこちらもばたついていてな」

鬼道を視界に入れて、ようやく落ち着いたのだろう。佐久間は音無からトランクを受け取りながら、謝罪を並べた。
鬼道が不在の間、総帥代行をしていた佐久間の心労は並大抵のものではない。あの大きな学園全てを支配する事は容易ではない。そして、その肩書きが鬼道にどれだけの意味を持っているのか、佐久間は痛い程過去を知っていた。

「仕方ねーよ!でも、鬼道。もう日本にずっといるんだろ?」
「ああ、もうここに居るつもりだ」
「じゃあまたこっちにも来てくれよ!」

円堂の言葉に、鬼道はぴくりと肩を震わせた。
彼は帝国学園の校内に進んで入ろうとはしない。かつて、鬼道が雷門のコーチになるきっかけとなった時も、松風に背中を押されるまでは帝国に入ろうとしなかった。

「……ああ、そうだな」

それは、あの敷地に眠る呪いを知っているからだろう。軽々しく足を踏み入れる場所ではないと、佐久間とはまた別の目線から円堂は知っていた。

「車、回してあるぞ」
「ああ、直ぐ行く……」

急ぐ佐久間に相当仕事が溜まっているのだろうと鬼道は覚悟を決めて歩き出した。
歩き出そうとした。
しかし、スーツの裾を引っ張られてそれは叶わない。突然の力に鬼道は振り返る。澄んだ黒がぶつかった。

「き、鬼道さん……!」

遠慮がちな初動とは裏腹に、鬼道のスーツを掴んだ手は強い。
申し訳なさと強い意志が混じりあった瞳は、彼の名前の通りに輝いていた。

「影山……」

鬼道は先を行く佐久間と雅野に一声かけて、少しだけ立ち止まる。自分と向き合う為に体を反転させた鬼道に、影山はようやく手を離した。

「見ていたか?」
「はい!」

鬼道の問いに影山ははっきりとした返答をする。迷いのない真っ直ぐな声に、鬼道は満足そうな弧を描いた。

「あれが、お前の叔父が残したサッカーだ。忘れないでくれ」

その昔、鬼道が鬼道となる為に絶対的に不可欠だったその存在は、今でも色濃く滲み出ている。
フィールド上でディフェンダーを躱す時、緻密な計算の上に造り上げたゲームメイクを豪語する時、鬼道の後ろには確かな影が見えた。勿論、今は亡き彼がどのようなサッカーをしていたのかは、データとしても残っていない。闇の中で暗躍する為に、自分の実力を出来る限り隠し続けていたのだから当然だ。
しかし、鬼道のサッカーは、確かにあの男が造り上げた作品だった。勿論、円堂と出会い、沢山の試合を重ねて鬼道にしか出来ないそれになっていった結果ではあるが、一番に強くにじみ出るそれは、サッカーへの愛だ。
それは鬼道ひとりのものではなく、不器用ながらにも愛を紡ぎ続けた男の名前が揺らぐのだ。鬼道の愛と男の愛が重なったプレイスタイルは、誰もが息を飲む美しい最高傑作だった。
それを世界に見せつけるために、鬼道は今日までプレイヤーで在り続けたのだ。

「忘れません!絶対……ボク、鬼道さんのサッカー大好きです!」

男の名前を継ぐ彼は、男とはまったく似ていない瞳で鬼道を映す。確かな熱意は鬼道を安堵させる。
自身の身を持って彼の影を引き継げる事に幸福を覚えた。
肩から掛けていた鞄からひとつの小さな紙袋を取り出す。向こうの空港の名前が書いてあるそれを、影山の手に無造作に落とした。

「土産だ」

自分の手の中に降ってきた思いもよらなかった贈り物に、影山は顔を真っ赤にさせて、喜びを表現する。

「へ、うわああありがとうございます!」
「あ、いいなあ輝!」
「鬼道さん!俺たちにはー?」

目聡い仲間たちに呆れたように笑った鬼道は、宥めるように言葉を投げた。

「ったく……たまたま空港で買ったものだから持っていただけだ。お前たちのは別便で送ってあるから今度持って行ってやる」
「なんだよー……輝クンだけずるいですよー!」

狩屋の嫌味な言葉を敢えて受け止めた鬼道は、最後に穏やかな微笑みを見せて背中越しに手を振った。
相変わらず彼は後ろを振り返らない。

「ねえねえ輝、何貰ったの?」
「開けてみて!」
「う、うん!」

松風や西園に急かされて、影山は紙袋を開く。本当は、家に帰ってからゆっくり開けようと思っていたのだが、松風たちの期待に満ちた瞳に逆らう事は難しかった。
小さな紙袋の中には、更に小さな箱が入っていた。全てイタリア語で書かれているそれを、影山が読む事は出来ない。黒に白地の流暢なアルファベットをあしらったデザインは、一目では何なのかよく判らなくて、蓋を開けてみる。

「うわあ……オーデコロンだっ」

小さな箱に詰められていたのは、ガラスの瓶に詰められた香りの魔法だった。
影山の手に乗ったそれに、少し後ろに立っていたマネージャーたちが松風と西園を押しのけて集まる。

「イタリア製だあ、いいなあ」
「でも、中学生じゃあんま使わないな」
「確かに」

まだ化粧のやり方すらよく判っていない―しかしそういうものに興味はある年頃の中学生にとって、目の前のそれはとてもお洒落なものに映る。外国製のものだから尚更だ。
思い思いの言葉を投げ合うチームメイトの騒がしさの中で、影山は蓋を開けて、試しに手首に吹きかけてみる。

「……あ、これ」
瞬間、影山の耳に鬼道の声が聞こえた。
気がした。
それは錯覚だ。先程、確かに背中を見送った事を鮮明に覚えている。

「どうしたの?輝?」

マネージャーに押しのけられていた松風が影山に問う。
キャプテンバンドの違和感がなくなった少年は、変化に敏感だ。
大切な友人に心配させてはいけない、しかし、これは自分の中だけで留めておきたい、二つの思いの狭間で葛藤を知る。

「……ううん、なんでもない」
「えー、なにー。教えてよー」
「えへへ……」

結果、満面の笑みで笑ってみせるしかなかった。

「じゃあお前たち、帰るぞー!」
「監督!俺、お腹空きました」
「雷雷軒いきましょうよ!」

円堂の言葉を切っ掛け、意識を雷雷軒に向けたチームメイトを横目に、影山は確認するように手首の香りに浸る。
初めて前に立った時、練習メニューを手渡しされた時、放課後、日が暮れてから特訓に付き合ってくれた時、短い時間の中で紡がれた光景は鮮明に脳裏に浮かぶ。
自分の手首から香るそれと同じ香りを影山は知っていた。

(これ、鬼道さんが使っているのと同じだ……)

長く使っているのだろう。鬼道の一部のようになっている香りが影山を包む。
これから先、雷門のグラウンドで影山がどんなに素晴らしいシュートを決めようが、壁にぶつかって涙を堪えようが、今までベンチにあった影が戻る事はない。
無機質ではあるが温かい声が降る事もない。
しかし、彼と同じ香りが自分の側にある。それだけで、走り続けられる気がした。
白と黒の球体を蹴り続けるのだろうと、未来を見た。

「輝―!いっちゃうよー?」
「今行くっ!」

幸せそうに微笑んだ影山は、憧れと同じ香りを従えて走り出した。
影山が駆けていくその世界は、確かに光で満ちている。


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