■サマータイム

初めての夏には気付けなかった。二度目の夏に、違和感を覚えた。三度目の夏に、確信を抱いた。四度目の夏に、切なさを覚えた。そして今年、五度目の夏にようやく影山は怒りを抱く。
ここまで至る為にどれだけの感情を乗り越えただろうか、吐き出した言葉は清々しかった。
しかし、それは本当に一瞬の事で、直ぐに後悔を覚える。しかし、出ていった声を戻す事は出来ない。真っ黒な瞳が複雑な感情で揺れた。

「……ボク、謝りませんよ」

影山ははっきりと宣言する。宣言、というよりは開き直りに近い。
独身男がひとりで住まうにはあまりに広すぎる部屋には、座り心地のいいソファがひとつ置かれている。
肘掛に頭を乗せて、シャツ一枚で寝そべっていた鬼道は、投げつけられた言葉に瞳を大きく見開いた。
今日に限って、いつも掛けているサングラスが外されていた。普段は分厚い硝子で遮られているせいで、あまり意識をした事はないが素顔の鬼道は溜息が出る程に美しい。
男性に、しかも十一も年上の相手にこの表現を使うのは適切ではないかもしれないが、それ以外に上手い言葉は見当たらない。

「……そうか」

時間を掛けて影山が吐いた言葉を砕いた鬼道は、寝かせていた体を起こす。解かれた髪が肩に散らばった。
緩く掛かったウェーブを邪魔だと思ったのか、左手で払った彼は、鋭い目を影山へと向けた。
始まりを数えれば、今から十五年も前まで遡る。それを影山は知らない。見ていない。しかし、衝撃だけは受けていた。
その日、異国の土地で『彼』の人生が終わりを迎えた。それは予定通りだったかもしれない。
しかし、突然の事だった。最期を予想していながら、何を告げる事もなく散った命は完璧過ぎる笑顔と重すぎる鎖だけを鬼道へ遺す。
事の全ての表と裏を知った鬼道は、果たしてどれだけの絶望と対峙したか、後悔を知ったか、涙を零したか、それも影山は知らない。これについては予想すら出来ない。他人である自分が簡単に予想などしていいものではないと、思っている。
しかし、それを与えたのが、自身の叔父であり、鬼道にとって『大切』以上の存在であった事だけは、嫌という程に理解させられた。
普段は冷静沈着で何事にも動じる事のない鬼道は、二十八歳という若さで歴史ある学園の長を務めている。現在は養父がまだまだ前線に立っているという事もあり関連企業を幾つか任されているだけだが、将来的にはこの国でも五本の指に入る財閥の長になる事も決定している。
凛とした佇まい、よく響く声、適切な采配、それは敬愛と盲信を呼ぶ。
そんな鬼道がこの期間だけは、酷くだらしのない顔を見せる。
勿論、外ではいつも通りの彼でいるのだろう。
だから、初めの夏は影山も気付けなかった。
しかし、年を重ねる毎に―鬼道のプライベートが暴かれていく度に、巧妙に隠されていた想い出は暴かれていく。
この期間―叔父である影山零治が亡くなった日を中心に前後一週間程―鬼道は生きる為に必要な全てを放り投げるように、想い出の中に生きる。何度も取り出しているであろうそれは、現実よりも美化されて、鬼道を殺す。食事を摂る事も忘れて、睡眠を取る事も知らずに、ただ日々を消化していくその姿は、影山の目には痛々しく映った。

「鬼道さん、また食べてないんですか?」

いつもと同じように遠慮しつつも強引に押しかけた部屋の惨事に溜息を吐く。
冷蔵庫を見れば、面白い位にからっぽだった。いつもはマメにクリーニングに出されているシャツも、部屋の角に積み上げられている。

「ああ、毎年の事だ。放っておけ」

投げやりに応えた鬼道は、影山を追い出す事はしない。
自分でも現状の意味の無さに気付いているのだろう。彼は聡い。しかし、あえてそれを止めない姿は、影山の左胸を痛めつける。
鬼道が影山へ師事していた期間は中学校時代の少しの間だけだ。
しかし、影山が鬼道へ向けた想いを、憧れからいくばくかの欲が混ざったものへと変化させるには充分過ぎる期間だった。
それを手伝ったのは、叔父である彼と鬼道の関係であった事は認めている。しかし、面白くはない。

「……いい加減にしてくださいよ」

だからつい、本音が溢れた。出会って五年、感情を知って四年と少し、想いを伝えながらもはぐらかされて三年。積もる想いは怒りを覚えさせた。

「いつまでも思い出に縋ってて、叔父が戻ってくる訳じゃないんだから」

自身の口から出ていった言葉の冷たさに凍りついた。しかし、確かにそう思っていた。
それは隠せるものではない。
鬼道の鋭い瞳に貫かれようと、それに対して後悔を覚えようと、撤回しようとは欠片程も思わなかった。

「だから、放っておけと言っているだろう」
「そんな事、出来る訳がないじゃないですか!」

好意を伝えてあるというのに、鬼道が影山へ向ける態度は出会った時から変わらないように見える。
誰よりも優しい癖に、冷たい。
この一件に置いては一線を越えてこないように分厚いシールドを張られているような、やんわりとした拒絶に影山の怒りは更に助長される。

「大体!鬼道さんは何がしたいんですか!叔父の側に行きたいとでも言うんですか?」

生きる為に必要な事を放棄した彼の姿に、まるで緩やかな投身自殺を見ている気分にさせられる。思っても言えなかったそれが喉を裂いて飛び出した。

「それが許されるなら、こんな事になるか!」
「許しませんよ!そんなの……」

鬼道の肯定に近い応えに、影山は必死に叫ぶ。鬼道が完璧な人間に思えていた季節はとうの昔に過ぎ去っている。
あとはただ、愛しさと危うさに怯えるだけだ。

「そんなの……ボクが許しません、絶対、絶対……」

何の権利があるのか、それを問われれば口ごもる。しかし、強い想いを唇に乗せた。
意味はないかもしれない。
それでも、鬼道は自分を許してくれている。側に置いてくれている。想いへの回答はあやふやだが、慈しみと優しさだけはふんだんに与えてくれた。
それが酷く、苦しい。
毎年彼への感情が、十五年経った今でも色褪せる事がない事実が、影山の首を絞めていく。
どれだけ睨み合っただろうか、空気を歪ませたのは鬼道が先だった。

「…………ふ、あははははは」

影山の叫びに鬼道は自嘲めいた笑いを見せる。右眉が少しだけ下がるのは、彼の癖だ。
そんなものでも笑顔は笑顔で、久しぶりに見たそれに影山は少しの歓喜を覚えた。

「悪かった、影山」
「……ボクは、謝りません」
「謝らなくていい、それでいい」

何に対しての謝罪か、それは聞きたくなかった。
ソファから立ち上がった鬼道は寝室へ入り、クローゼットを開けてスーツを着る。真夏にその格好はどうなのか。プライベートでくらい、もう少し楽な格好をすればいいのにと突如浮かんだ呑気な思考に頭痛がした。
あれだけ鋭く影山を貫いていた瞳に、分厚い硝子が被せられる。勿体ないと思いながらも、少しだけ安堵した。
世間が描く理想の『鬼道』に戻った彼は、影山の頭を宥めるように撫ぜた。

「お前が好きなものを食べにいこう。心配を掛けた詫びだ。何が食べたい?」

投げられた穏やかな声は、いつも通りの鬼道だった。どうやら、先程まで広げられていた世界は、再び鬼道の中へ仕舞い込まれたようだ。

「……焼肉」

むくれた顔で影山が出した言葉に、鬼道は笑った。
瞬間、影山は後悔の海に身を投げる。なんて事をしてしまったのか。向けられた笑顔に、距離を覚える。
恐らく、この鬼道を知る者は影山以外に誰もいない。親友と言われた円堂や豪炎寺には決して見せないだろう。帝国時代からの友人という佐久間や不動に対しても、同様だ。
心配をかけさせてはいけないと思っているのだろう。向こうも向こうで同様に、この話題にだけは敏感で、あえて触れないように務めている。
想い出に浸る彼は嫌いだった。面白くなかった。足掻いても敵わないと言われている気がして、そんな事はないと声を大にして叫びたかった。
しかし、それは裏を返せば影山にしか見せる事のない顔だった。それを期待として捉えていいのか、わからない。
ただ、それが影山のみに許された特権だった事は確かだ。それに、今の今まで気付く事の出来なかった自分に、その幼さに、吐き気がした。

「ほら、いくぞ、影山」

呆然としている影山を、鬼道が呼んだ。彼が呼ぶそれは、憎らしい程に優しい。声に引きずられるように、隣に立つ。
成長期の影山の背は初めて出会ったあの日から大分伸びた。遺伝もあるのだろう、未だに伸び続けている身長は、恐らくあとひとつでも季節を終えれば鬼道を追い抜くだろう。
それでも、まだ届かない。
閉められた扉に鍵が掛かる。影山の隣、車のキーで遊んだ鬼道は先程までの色を何一つ、残していなかった。
しかし、あのセピア色は、鬼道の中で輝きを失う事なく、大切にされている筈だ。
影山は、叔父の事も鬼道の事も好きだった。だからこそ、余計に事は複雑なのだ。
自分の好きな人が、自分が大切だった人を忘れてない。それは嬉しい事なのに、哀しい。

「難しいですねー」
「何が?」
「なんでもっ」

左ハンドルの車に乗り込んだ鬼道に、影山は乱暴に応えてシートベルトを締めた。これも、影山に許された特権だ。
エンジンが掛かる。鬼道の手によってギアが変わる。特有の気怠い空気に、排気ガスが散らされた。
五度目の夏が、過ぎていく。六度目の夏にはどんな感情を抱くのだろうか。裾が赤くなりかけた空へ、影山はひとつの溜息を吐いた。


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