■ネクロポリス
日本の朝は白米と味噌汁に限ると何処かの誰かが言っていたと、思い出した。鬼道家に居た頃は朝も夜も洋食形式のものが多かった為そんな風には思った事はなかったが、イタリアで数年間プロとして滞在していた間にその言葉を思い出して深く頷いた事は記憶に新しい。そんなに食べる機会は少なかったというのにそう思うのは日本人の血か、それとも雷門での合宿で食べたものが美味しかったのか。
懐かしい過去を思い出しながら、味噌が湯に溶けていく香りにうっとりとした表情を浮かべる鬼道に声が掛かる。
「なにか手伝うか?」
「え、あ、総帥!おはようございます」
新聞を取りに行っていたらしい影山が戻ってきた。パソコンや携帯から全てのニュースを見られる時代になった今でも、二人は英字のものと日本のものの二種類のそれを読み続けている。
「鬼道、『総帥』はもうお前だろう」
呼ばれた肩書きに影山は微笑む。昔はサングラスの奥に隠されていた瞳も今は薄い老眼鏡の向こうに透けている。優しい瞳の色に指摘された鬼道は困ったように眉を下げて、笑った。
「え、ああ……そうでした……慣れないものですね」
長い間呼び続けたその肩書きは今ではもう鬼道のものだ。三ヶ月前にイタリアから帰国し、帝国学園の総帥となった彼の評判はとても良い。今期の大会では再び帝国が優勝をもぎ取るかもしれないと既に噂されている位だ。
「うむ、まあ私もお前にそう呼ばれて悪い気はしないから好きにするといい」
鍋の右に置いてあった茶碗を取り上げた影山は炊飯器の中にある炊きたての白飯をよそう。鬼道が出来たばかりの味噌汁を注ぐ。今日はねぎと豆腐とじゃがいもを具として入れてみた。昨日の夕飯の残りであるきんぴらを添えて、二人は席についた。
「総帥、今日のご予定は?」
手を合わせた後、揃って朝食を取る。食事の用意は基本的に鬼道が担当している。影山曰く、自分で作るよりも美味しいという事だから鬼道がそれを怠った事はこの同居生活を初めて一度としてない。
「午後に協会の方で会議がある。夕飯は雷門と食べて来る。帰りはお前よりは早いだろう」
影山は現在、サッカー協会の会長を務めている。
あの事件の後、誰も訴える者が居なかったという事と自身の犯罪行為を自白した事、そして国際的犯罪者であったガルシルドの逮捕に一役駆ったという功績を認められたからか、彼への判決は比較的軽いものであった。
しかし、彼に関わる者で多くの傷を負った人間がいる事は確かだ。
ただ、彼のサッカーへの愛は本物だという事もよく知られていた。その為か、影山が会長に就任する事は前会長の雷門が勧めた位だ。
ちなみに雷門は現在サッカー協会顧問として活動している。そのせいか、影山は最近よく付き合いがあるらしいと円堂の結婚式に呼ばれた際に夏未から聞いていたのを、鬼道は思い出した。
「あ、俺今日同窓会なんです。だから先に寝てて下さいね」
「同窓会?」
「ええ、イナズマジャパンの」
影山にとってはあまり良い思い出のあるものではないだろうそれに一瞬だけ過去が甦るが、それすらも今は愛おしい。
「そうか。あまり遅くなるなよ」
食後の茶を鬼道の前に差し出した影山は鬼道の好きな笑顔を見せる。
まるで父のような言葉に笑った鬼道はネクタイを締める。この春、帝国の総帥に就任した祝いにと影山から贈られたそれはあの日と同じ赤色をしていた。
「子供じゃないんですから。では、いってきますね」
食事の後片付けは出るのが遅い影山の役割だ。シンクに二人分の食器を置いた彼の頬にいつものキスをひとつ贈る。
「ああ、行ってこい」
見送りの挨拶に満足そうに笑った鬼道はスーツの裾を翻した。
影山と鬼道の同居がはじまったのは半年前の事だ。
その時影山は定年を迎える間近で(途中でブランクはあれど)五十年程続けてきた帝国学園総帥の座を誰かに引き継がねばならなかった。そこで、まずはとイタリアに居る鬼道に打診をかけた。勿論、彼がイタリアでまだプロとして続けたいというならば他の誰かを推すか、総帥制度を無くす事も考えていたが鬼道は二つ返事で帰国を決めた。
それから引き継ぎと称して影山の家に居た延長で現在の同居生活が成り立っている。鬼道の家にはしっかりと彼を預かる事について了承を貰いに行ったが、彼の養父ははじめから察していたようで反対に頭を下げられた。
とはいっても昔から影山の家に鬼道の持ち物は多かった為(というよりは影山が泊まる事が多くなった鬼道の分の寝巻きや日用品を用意をしていたといった方が正しいだろう)特別な事はなにひとつなくてあまり違和感はない。
ただ、鬼道が作る料理を食べて、掃除や後片付けを影山が担当して、同じベッドで寝る。それが当たり前になっただけだ。
十年前の影山はこんな些細な事で幸せなど感じられなかっただろう。いや、感じたとしてもそれを幸せだとは認められなかっただろう。自分は悪なのだと、随分長い間言い聞かせていたように感じた。
「さて、私も行くか」
洗い物が終わった手をタオルで拭いた影山はスーツの上着を着る。扉を閉める前、影山は鬼道が持つものと同じ鍵を持っている事に口元に弧を描いた。
時刻は既に深夜一時を回っている。一台のタクシーがマンションの前に停った。
「ねえ鬼道ちゃん……俺やだよ。ここまでじゃダメか?」
気温の急激な変化のせいで靄掛かっている道路の真ん中でそびえ立つマンションを見上げた不動は抱えた鬼道に慈悲を願うがそんなもの聞いてくれる相手ではないという事はよくわかっている。いや、普段ならばなんだかんだで鬼道が優しい事もわかっているが、あいにく彼は現在泥酔中だ。だから、不動がここまで送っていく事になったのだけれども。
「なにいってるんだふどぉ、おまえ、おれのこときらい?」
「違くて……あー……影山さんに叱られる……ぜってえあの人怒ってるっつーの」
酒にそこまで強くない癖に許容範囲を越えて呑んでしまうのは親しい仲間が集まったあの空間の魔法だろう。その気持ちは理解出来る。出来るが、勘弁してもらいたい。鬼道の同居人がどれだけ鬼道を大切にしているか、十年も前から間近で見てきた不動は自分に降りかかった災厄に頭を抱えた。
「そおすいは、そんな方じゃないぞ!」
なんとか引っ張ってエレベーターに乗せた鬼道は舌足らずな声で影山の弁護をする。酔っていようが彼の中でも大切なものは変わらないのだと知らされ、不動は更に泣きそうになった。
「あー!お前こんな深夜に近所迷惑……」
十四階で止まったエレベーターを降りて、角に買った部屋まで鬼道を引き摺る。簡易的な表札に綺麗な明朝体で印刷された『影山』と『鬼道』という文字の下のインターフォンを何度も押した鬼道に不動は慌てる。
「そおすい!そおすい開けて下さい〜」
「鬼道チャンてめえ……!なんて事をしてくれちゃってんの……!」
もう時計の針は日付変更線を越えている。影山は夢の中に居るかもしれないのに(そうすれば、不動は恐怖を見ずに済むというのに)酔った鬼道の行動に何度目かの頭痛がした。
出来るなら寝ていてくれという不動の願いもむなしく、ゆっくりと扉は開く。
「……不動、貴様何時だと思っている」
地を這う声は初めに会った時から変わらなくて背筋が凍る。今ではもう隠れていない瞳は眠りから覚めた瞳ではなく、鬼道の帰りを待って開いていたそれをしていて、その鬼道に対する想いの強さに不動は恐怖しか感じられない。
「ひいっ、す、すいません!でも俺が飲ませたんじゃなくて円堂が……」
「そおすい!」
自分はただ送ってきただけだと必死に言い訳をする不動の腕からふと重さがなくなる。鬼道が、影山を認識して自ら離れたのだ。
「ただいまかえりましたあ〜」
幼い頃に戻ったように、鬼道は影山の胸に抱きつく。満足そうに笑う鬼道の解いたドレッドの裾を指先で遊んだ影山はそれは愛おしそうに微笑んだ。
初めて見る影山の表情に驚きと衝撃を受けて固まった不動に、彼は一枚の万札を手渡す。
「……手間をかけた。これで帰れ」
「え…あ、はい」
終電もないこの時間、家までタクシーで帰るには多過ぎる金額を渡された不動の前で幸せそうな二人を迎え入れた扉はゆっくりと閉まった。
「かげやまそうすい〜」
酒が抜けていない鬼道は相変わらず幸せそうな笑みを浮かべて影山に抱きつく。いくつかのキスを唇に求める。相当酒臭いだろうに、それでも影山はそれを受け入れる。十年前は身長差のせいで鬼道からは出来なかったそれも現在ではつま先を立てるだけで容易くなってしまった。
「……鬼道」
呼ばれた名前は一番はじめに彼が影山から貰った大切なもので、鬼道はゆっくりと瞳を閉じる。
額にひとつ、穏やかなキスが落とされた気がした。
おかえり。
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「兄さん?兄さん!」
覚醒は愛しい妹の声で促された。慌てて瞳を開くと、そこには心配そうに眉を下げる彼女が居た。
「は……るな?」
「大丈夫?疲れてるんじゃないの?」
今日の練習で採れた選手のデータを記載した紙を拾い上げた彼女の手には湯気の立つコーヒーがあった。わざわざ気を利かせて煎れてきてくれたのだろう。その優しさに鬼道の胸はじんと温かくなった。
「大丈夫だ。あと少ししたら帰る」
「そう……あんま無理、しないでね」
コーヒーを渡した春奈は心底心配そうに鬼道を見つめた。
もう遅いからと彼が帰るまで居座ろうとした春奈を無理矢理帰路につかせて、鬼道はひとり先程の夢を反芻させる。
あんな未来は、何処にもない。しかし、あの未来が選択肢をひとつ違えるだけで手に入るというのなら、それほどに幸せな事はないだろうと、目頭が熱くなった。
「影山……総帥」
呼んだ名前は遥か未来で、鬼道を待っている。それだけが、その細やかな希望だけが、今も尚鬼道の心臓を必死に動かしていた。
「もう少しで、戻りますね」
……影山総帥。