■モザイク

帝国の地下は今日も秘密を孕んでいる。

響木が次期聖帝候補として動き出してからは今まで以上にフィフスセクターの目は鋭く、雅野たちの活動は更に注意深く進められていた。
帝国の総帥である鬼道が雷門のコーチとして出向いている事が余計に目を向けさせるのだろうが、未だに表面上はフィフスセクターへ従っているふりをしている為、大きく乗り込んでこられていないだけだ。

『現在、雷門にはシードがいない。かといって誰か送りこんでも剣城と同じ事になるだろう』
『そこでだ、俺がコーチとして彼らを監視するというのはどうだろうか?』

鬼道は雷門の監督である円堂と親友だと言われている。
長い時間をかけて培った友情は時に人を弱らせる為、鬼道が側にいるとなれば円堂は無邪気に喜ぶだろう。
表向きは彼らと共にフィフスセクターに反抗しているとみせかけて、情報を流す。
その役割を鬼道はあえて自分から希望した。
勿論、その提案自体が嘘なのだがその演技は一瞬、本当にたった一瞬だけ佐久間ですら疑ってしまう程に、洗練されていた。
結果、彼は雷門のコーチに就任し、現在帝国へは週に1、2度程しか顔を出さなくなってしまったが、それでも雅野は彼が毎日送ってきてくれるレポートを読む度に、彼に傅くのだった。

「今日、遅いですね」
「会議なり練習なりが長引いてるんだろ」

佐久間と一緒に鬼道からのメールを待つのが、現在の雅野の日常だ。
毎日6時半丁度に送られてくるそれは無機質な文字だというのにやけに愛おしい。
まだか、まだかと今日も画面の向こうの鬼道を待つ彼は小さな忠犬に見えて、佐久間は隠れてひとつ笑う。

「あっ!きた!」

パソコンからメールが届いた事を知らせる音が鳴る。
いつも通りの挨拶から始まった文面を雅野は瞳を輝かせて読み進めていく。
しかし、ある一文で雅野の目から光が消える。
雅野が読み終えてからゆっくり読もうと思っていた佐久間は彼の反応を見て、慌ててパソコンを奪い取った。

「……なんだって」

仕舞い込んだ筈だった過去が一気に蘇る。
重い鎖が落ちた音を、確かに聞いた。

「俺、俺……!!」
「あ、おい!雅野!」

扉を開け放したまま、地上へ上がっていった雅野を止める暇もなだめる暇もなかった。
かつての自分ならば彼と同じようにここで飛び出して行ったのだろうが、流れてしまった歳月がそれを止めた。
仕方なく、スーツの内から携帯を取り出して電話帳の一番に登録してある鬼道の番号を選ぼうとしたが、それすらも出来ない。

「あーあ……大人になるって、嫌なもんだな……」

会いに行っても何も出来ないから足が動かない。
大丈夫か、という言葉もかけられない。
それがもしも出来たとしても、ただ惨めになるだけだと知っているから、動けない。
これだけの年月側に居て、何も出来ない自分に佐久間は膝を抱えた。



帝国から雷門までは電車で行くならば5駅程の距離がある。
十分に一本は確実に出ているのだが、それを待つのも惜しい。
学園の門を出た所でタイミング良く拾えたタクシーの中、雅野は爪を噛んだ。

(見間違いじゃない、筈だ……あれは、確かに、アイツと同じ名前だ……!)

雅野は『彼』をまったく知らない。
しかしある意味では一番『彼』を知っていた。
それは光と共に雅野の直ぐ側にあり、見ようと思えばいつだって見れた過去の話。

もし、雅野にひとつだけなんでも叶える力があるならば『彼』が居たという事実を消してしまいたいというどうしようもない感情に襲われる程、雅野は『彼』を憎んでいる。

雷門の前に止まったタクシーに財布の中から1000円札を3枚投げつけて、雅野は走る。
後ろから運転手が釣りがある事を叫んでいるが、小銭何枚と比べられる程小さな事ではない。
1秒を惜しむように走った雅野に情けを掛けてくれたのか、暗闇の中グラウンドには雷門のユニフォームが鮮やかに咲く。
と、いう事は鬼道は練習の合間を見てレポートを送ってきてくれたのだろう。
その手際に隠された優しさと正確さに雅野の心は様々な感情でいっぱいになって、思わず叫んだ。

「鬼道総帥……!」




響く筈がない知った声に一瞬、反応が遅れる。
最近呼ばれていなかった肩書きは、久しぶりに左胸を傷つけた。
声がした方を振り向いた鬼道の腰に、衝撃が走る。

「……雅野?お前、どうしてここに」

震える手でしっかりと鬼道に抱きついた雅野は、顔をうずめたまま上を向こうとしない。
なにがあったのかとそれぞれの課題を克服する為に動いていた雷門の部員たちが練習の手を止めて、こちらを見る。
その中のひとつ、やけに真っ直ぐで純粋な瞳に晒された鬼道は、雅野がここにいる意味をようやく理解した。

「……そうか、お前は知ってるのか」

柔らかく、しかし寂しそうに呟いた鬼道に、雅野は回した腕の力を強くした。



その名前の意味を、知っていた。
決して鬼道には「知っている事」を言わなかったが、雅野はそれを知っていた。


『影山零治』。


それは『鬼道有人』という存在がどのように生まれ、誰に造られたかという歴史。
鬼道の事を知る為に少しばかり深入りをしてしまった日、雅野は初めて「彼」と対峙した。
帝国に君臨していた恐ろしい権力者としての顔。
サッカー教会副会長としての威厳のある顔。
たくさんの権力者から「先生」と呼ばれた彼は、その人生の全てを使ってサッカー界への復讐を図った。
文字にしてしまえばただの犯罪者なのだが、その裏には雅野がよく知る名前がいくつも絡んでいた。
今から数えるともう十年も前の事、あの時はFFIという世界的なサッカー大会の存在があまりに眩しすぎてそのニュースは朝の3分で終わってしまった。
しかし、鬼道の胸には今でもまだ、彼が居る。

「大丈夫だ、ありがとうな」

まるで子供をあやすように撫でられた手に幾分かの不満を持つ。
「抱きつく」形にしかなれない自分が悔しい。
いつか、彼を「抱き締めて」あげられるその日まではまだまだ遠い。

「総帥……鬼道、総帥」

雅野は知っていた。

どうして鬼道がイタリアからわざわざこの島国の中学サッカー界などという狭い世界を救う為に戻ってきたのか。
どうして彼が、帝国学園の総帥という肩書きを選んだか。

勿論、自分がかつて活躍した場所だったからという事もそれに立ち向かう円堂という存在も大きな理由ではあるのだろうが多分、「彼」が愛した世界を守るためだったのだろう。
そして、おそらくその予想は外れていない。悲しい程に。
どれだけ雅野が憎んでも「彼」は鬼道の側にいる。
もしも本当に彼が居た過去を消せたとしても、そうすれば「鬼道」も共に消えてしまう。
二人の境界がどこかもわからない程どろどろに、混じり合った想いは今でもなお強く、鬼道を縛り付けていた。
それは雅野が生きてきた14年という短い時間では到底理解出来ない感情の全て。
緑の奥に隠された赤も、同じ色をした罪の事も、鬼道の側に立つ『彼』の事も。
今の雅野には受け止め切れるものではない。
しかし、それでも雅野は必死に亡霊を睨んだ。

(負けるものか……負けるものか、負けるものか……!)

崇拝か敬愛か恋慕か。
それすらわからないまま、雅野は今日も先の見えない道を走り続ける。


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