■不幸自慢
夕焼けの赤よりも、彼の頬が赤かった。
秋の風に晒された頬よりも心が冷えていく音がした。
死神の鎌を持ち、前に立った彼はそれでも相変わらず愛おしい。
満面の笑み―しかしどこかはにかんだような、知らない顔で笑った円堂はその大鎌の刃を首筋に当てる。
「夏未とさ、付き合う事になったんだ」
少しだけ掠れた声は彼の喉を掻っ切った。
処刑台に続く階段を上る。
靴の裏と鉄が触れた時に響く音がまるでカウントダウンのように聞こえた。
円堂守がよく特訓している広場の鉄塔の先には高い空がそびえ立つ。
赤く染まったそれは、豪炎寺の泣きたい想いを助長させた。
一番高い所まで、39段。
天に近い場所はこの町が一番よく見える。
「やはりここに来たか、豪炎寺」
いつも特訓している円堂はここにはいない。
それを肯定する少し前に網膜に焼き付けてしまった風景を豪炎寺は思い出す。
昇降口までは一緒に出たのだが、その後、彼は校門で待っていた雷門夏未と一緒に帰路に着いた。
左胸が潰れるくらい、痛かったあの瞬間を思い出して豪炎寺の眉間に皺が寄る。
そんな彼の心など全て見透かしているように、そこに居た「彼」は口元に得意気な弧を描いた。
「……鬼道」
夕日を背にした鬼道の表情はよくわからない。
しかし、彼がこの場所に来た理由だけは嫌という程、よくわかった。
まるで用意されていたように人ひとり分開いた隣に立つ。
それを見計らった鬼道は、回り道などしないで直球で豪炎寺を穿った。
「聞いたか?円堂の」
「ああ」
やはりそうだったかと、安堵を半分、痛みを半分、左胸に納める。
円堂は真っ直ぐな男だ。
そして、豪炎寺と鬼道はそんな円堂の「親友」だと誰もが納得している。
勿論、本人たちもその肩書きを預けるのにふさわしい相手だと互いを思っているだろう。
時差はあれど、豪炎寺が知っている事は鬼道も知っている。
それは、円堂が基本的に隠し事を嫌うからという理由に基づいていた。
だから、今日の報告を鬼道が知っているのはまったくおかしい話ではない。
おそらく、いや、絶対、円堂は自らの隣に立つ彼女について他の人間には言わないだろう。
勿論聞かれれば答えるだろうが(隠す理由などないのだから)わざわざ報告などしない。
それでも、その情報を現在豪炎寺と鬼道だけは知っている。
それは円堂の中で形はどうあれ、豪炎寺の存在が特別で居る事を許される瞬間。
『親友』。
それはとても誇らしく、そして恐ろしい程寂しい響きだった。
幸せそうに笑った円堂を思い出した豪炎寺に鬼道は挑発的な目線を投げる。
ゴーグルの向こうに隠れてしまい片方はわからないが、彼とも長い付き合いだ。
どんな表情をしているか位、簡単にわかってしまう。
「慰めてやろうか?」
「慰めて欲しいのは、お前だろ?」
反射的に返した言葉に一瞬、鬼道がたじろぐ。
しかし、それは本当に一瞬の事で彼はその事実をあっさりと受け入れた。
「正解だ」
片方の口角を上げた笑いを見せた鬼道は軽々と柵を飛び越える。
中学生男子が立つには十分な広さではないそこは、不安定だ。
少しでもバランスを崩せば彼の華奢な体は地面に叩きつけられるだろう。
その危うさに豪炎寺は思わず手を伸ばした。
「おい、鬼道」
「なあ、ここから飛び降りればあの人の所に行けると思うか?」
まるで、明日の天気はどうだろうかと問うのと同じような感覚で
吐き出されたその言葉に、それ以上手が伸ばせない。
もしも、万が一にも彼がそれを望むなら、全力でその腕を掴んで阻止しなければいけないのに、それは鬼道の中の大切なものを踏みにじっているようで、躊躇した。
それは彼が指した「あの人」だって望んではいないだろう。
「………」
返す言葉が見つからない豪炎寺を置いていきぼりにして、鬼道は赤い空へと叫ぶ。
「俺はな、怒っているんだ」
鬼道有人が大切な「彼」を亡くしたのは、今から遡って3か月前。
遺体の損傷が激しくて、棺桶にいれるものは無かったと聞く。
海外に逃亡する際に全て日本における自らのものは処分してしまったようで、この小さな島国に「彼」が存在していた事を証明するものは、あまりに少ない。
その希薄な空気の中、鬼道は必死に息をしていた。
「はじめは哀しかった、ただ辛かった、でも、今は違う」
世界に満ちる酸素には限界がある。
減少していくそれは、鬼道の生命を維持するにはあまりに少ない。
それくらい、この世界には彼の痕跡が少なすぎる。
ふと、豪炎寺は自らが抱える痛みと彼の痛み、どちらが辛いのだろうかとくだらない疑問を抱いた。
豪炎寺は円堂が好きだった。
一度だけ、本当に一度だけ、練習疲れが出たのか部室でうたた寝している円堂の唇を浚った事があった。
かすめただけの幼いそれは豪炎寺の中にひとつの確信を抱かせた。
その時だった、この感情に名前をつけたのは。
しかし、彼とどうなりたい訳でもなく、ただ太陽のようにそこにあり続ける存在なんだと漠然と勝手に想っていた。
今日のあの時まで、円堂が「特別」を作るまでは。
そして、それと同様、鬼道は影山を愛していた。
それは、善でも悪でもなくただ純粋に。
そして恐らく―これは彼に聞いた訳ではないので定かではないが、影山も鬼道を愛していた。
それこそ、世界の唯一と言える程に。
しかし、今、影山はもういない。
愛する者に残される世界と、愛する者が自分を愛さない世界。
果たして、どちらの方が残酷なのだろう。
「鬼道」
「なあ、豪炎寺」
「……なんだ」
呼びかけた声に声を被せられた。
柵の向こう側からゆっくりと帰ってきた鬼道は彼の形見であるゴーグルの向こうから豪炎寺を射抜く。
口元の笑みはいつもの彼と同様だったが、微かに震えているのを見逃せない。
「ひとつ、秘め事を作らないか?」
「……俺と、お前でか?」
「ああ、俺と、お前でだ」
にやりと、そう形容するのが一番正しいだろう、笑った鬼道はゴーグルを取る。
隠された赤は沈みかけた夕日の色と混じって豪炎寺を理解に至らせた。
「成る程」
円堂の言葉が鮮明に蘇った。
『俺はさ、お前と鬼道には隠し事したくないんだ』
だから彼女についてもご丁寧にも報告をしてくれた。
覚悟のひとつも出来ていない豪炎寺へ、恐ろしい程あっさりと。
だからこれは仕返しなのだと、自らに言い訳をひとつ落とす。
円堂が嫌だと言った『秘密』を、豪炎寺と鬼道のふたりで作り上げる。
親友としての大切な約束を破ってみせる。
そして、先に旅立ってしまった影山に見せつけるように、鬼道は笑う。
どちらからともなく触れた唇は記憶にあるそれとは似て非なるもので。
「……円堂のとは、違うな」
「…総帥のだって、違う」
鋭く釣り上げられた赤が滲む。
狭い世界に崩れ落ちた鬼道は、ただ叫んだ。
「う…う、あああああああ」
堰を切ったように溢れた涙は頬を伝って鉄の板へと落ちる。
豪炎寺はそれ以上、踏み込む術を知らない。
そして、彼のように泣く事も出来なかった。
そうしてしまったら、自らの恋の終わりを認めてしまったような錯覚がして。
「総帥…、影山総帥!どうして…どうして…」
鬼道は叫ぶ。
空にか、地の下にか、それとも大気にか。
消えてしまった彼の名残を探すように。
「俺も…俺も連れて行ってください…どうして俺だけ…あああああああ」
「総帥のばかあああああ」
伸ばされた手を掴むあの人は、もういない。
夕日の欠片が西の空へ沈む。
夜が闇を連れてきた。
恐ろしい程綺麗に光った金星が、憎々しい。
「……円堂の、ばか」
秋の風は冷たく、彼らを慰める事をしない。
涙を流す鬼道に隠れ、豪炎寺は小さな声で行き場のない想いを吐いた。