■親の心子知らず

一般家庭というのはこういう感じなのだろうと、初めて訪れた円堂の家を見て鬼道は感じた。
己が住まう家の何倍も小さな空間にはたとえようのない温かな空気と夕飯の準備をしているからか、美味しいそうな香りで満たされていた。

「ただいまー!」

泥だらけの靴下で靴をそろえる事なく上がった円堂に台所から母親である温子の声が投げつけられる。

「守!靴下脱いでからにしなさい!あと靴は揃える!鍵はかけないでいいわよ、お父さん今日は早いみたいだから」

いつもこうなんだと小さな声で鬼道に囁いた円堂は苦い笑いを見せる。グラウンド上では頼れるキャプテンである円堂守が子供に返る瞬間だった。玄関からなかなか上がってこない息子にしびれを切らしたのか、温子が台所から顔を出す。

「守、なにやって…あら、鬼道くん」

エプロンにおたまを持った彼女は息子の隣に立つ鬼道を認識して表情を和らげる。円堂から話は聞いているのだろうし、何度も試合を見に行った事もあったため、こうやって面と向かうのは初めてであってもしっかりと記憶に入っているのだろう。まあ、鬼道のような目立つ人間を無視しろという方が大変なのだろうが。

「うちの守がいつもお世話になって…この前のテストの時も鬼道くんが勉強教えてくれたんでしょ?まさかうちの守が赤点以外をとってくるなんて…本当夢のようだったわ」

まるで少女のように純粋で、それでいて誰もが憧れる「母」の像を持つ人だと、鬼道は一瞬で感じた。隣でふてくされている円堂は嫌で嫌で仕方がなかったテスト期間でも思い出しているのだろう。

「ところでどうしたの?そういえば、鬼道くんうちに来るの初めてよね?」

守がよく話すからついつい昔から知ってる気がしてね。
そういって優しく微笑んだ温子に、鬼道は深々と頭を下げた。

「おい…鬼道?」

突然の行動に隣の円堂が慌てる。当たり前だ。
今日、鬼道がここにいるのは円堂が誘ったからではない。彼が自ら円堂の家にいきたいと言い出したからだ。長くチームメイトをやっているように思えるが(試合数が多いだけでまだ数か月しかたっていないのだけれども)初めての申し出に特に疑問も持たず、円堂はそれを承諾した。むしろ、喜んでいたようにも見える。
しかし、鬼道の言葉にも行動にも理由がない時は一度もなかった。少し考えればその違和感に気づくだろう。あの場に豪炎寺がいればその気持ち悪さに気づくのは一瞬だっただろうが、あいにく彼は溺愛している妹と待ち合わせをしているようで、少し先に帰宅してしまった後だった。
それも含め、すべて鬼道の計算だったのだろう。

下げた頭を上げぬまま、鬼道は喉を裂く。

「申し訳ありませんでした…あなたを…あなたの家族を何十年と苦しめ続けてしまい…本当に、申し訳ありませんでした!」

温子の肩がぴくりと震えた。顔から表情がなくなる。あの感情を思い出してしまったのだろう。しかし、それはもう過ぎた事だった。あまりに長い時間、真綿で首を絞められている感覚を味わっていたけれども、もうすべてが終わった後の事だ。
鬼道の前にしゃがんだ温子はゆっくりと許しの言葉を紡ぐ。

「父が生きていた、守に大切な仲間が出来た。何も恨んではいないわ」

それに、あなたが謝る事ではないでしょう?

優しく頭を撫でられる感覚は、鬼道が記憶している手とは違う。
ゆっくりと頭を上げた彼はゴーグルの奥からしっかりと温子を見据えた。

「あの人の罪は、俺の罪ですから」

そうやって生きていくって、決めたんです。

これはただの自己満足。勝手に背負いこんだ彼の人の罪は、残された鬼道にとってただ唯一彼の側に居た事を証明するものだった。
小さな体に背負い込んだ事の重さに、温子は思わず鬼道を抱きしめた。
薄い化粧と夕飯と日向の匂いが鬼道の鼻をくすぐる。

(これも、総帥とは違う…)

染み込んだ彼はまだ消えてはくれない。
それが酷く嬉しくて、鬼道は微笑んだ。


design by croix