■僕が「兄さん」と呼ぶようになったワケ。


朝を知らせるベルが頭の奥底で鳴り響いている。
タケルはまだ覚醒しきっていない目を擦りながら、朝の日が自分を刺すのをみた。

「お兄ちゃんみたい…」

柔らかく、覚醒を促し、そして自分を突き刺すかのような光を兄に例えた。
何事も弟である自分を一番に考えてくれて、大切にしてくれて、それでも弟としかみてくれない兄のヤマトに。
彼と同じ血を継いでいる割には、どうも似てない目や輪郭を鏡でみて今朝も安堵した。
自分が、兄に壊れそうなくらいに切ない感情を向けている事が許されているかのようで。
タケルは鏡の中のもうひとりの自分にむかい、にこりとひとつ、偽りの笑みを貼り付け外の世界へと踏み出した。











及川の事件も先月なんとか片がつき、比較的平和といえる日常が戻ってきたが、放課後になるとパソコンルームに大輔たちがあつまるその風景はいまだ変わらずそこにあった。
三年前の冒険では、敵を倒したら別れを告げなくてはいけなかったパタモンは、まだタケルの側にいた。
こちらの世界にこれるようになってから好んで摂取している添加物入りのゼリーを短い足で抑えながら懸命に吸うパタモンに本物の微笑みを向けると、
今だに安定しないゲートへと視線を向けた。
光子郎を中心として、旧選ばれしこどもたちであるメンバーがゲートの安定化をはかってはいるが、
現実世界に流れ出してしまったデータが多いため、いまだに不安定なそれはパソコンの画面のなかで不規則的に揺れ動いていた。

「昨日より落ち着いてるね」

隣から同じ画面を覗いていたヒカリが誰へともなく呟いた。
たしかに画面に映し出された波は昨日のそれよりも落ち着いたものになっていた。

「そりゃ昨日は太一さんとヤマトさんの担当だったから」

その大輔の言葉にタケルは貼り付けていた笑みが崩れそうになるのを慌てて繕う。
紋章の力を返してしまってから、究極体にまでは進化することはなくても太一とヤマトのデジモンは仲間内のなかで一番頼りにされていた。
そして、事実一番の力となっていた。
いつだってデジモンだけで戦う事をよしとしなかったふたりの姿勢はタケルたちにも受け継がれていたが、やはり本家はその心構えも違う。
ガブモンに呼ばれ、デジタルワールドに三年ぶりに足を踏み入れたヤマトは三年というブランクなど感じさせないくらい自然に、ガルルモンの背中へと飛び乗り、共に駆けていった。
アグモンが過去の賢により暗黒進化させられた時、太一はアグモンに攻撃を仕掛けることを選択した。
タケルだって、パタモンに同じような事があれば身を挺して救いにいくだろうしぺガスモンへとアーマー進化できるようになってからはいつだってその背に乗ってきた。
それでも、太一とヤマトのそれにかなうことなどなかったと自覚していた。

「あのふたり、ほんと仲いいわよねー」
「ヤマトさんと空さんが付き合ってた時はあまり一緒に居なかったけどね」
「それでもなんていうの?本当にお互いを信じてるっていうかー」

ヤマトと空の事については深くかかわりをしていたタケルとヒカリは少し苦い笑みを浮かべたが、タケルはそれ以上に太一と自分の兄が他人からどうみられているかに胸を痛めた。
光子郎いわく「いまいちまとまりがない僕ら」の中でいつでも、なにがあっても互いを信じていたふたりの関係は「親友」では収まりきらなかった。
その事実は、幼いタケルの胸に暗雲を立ち込めた。
いつだって、ヤマトの中にはタケルが一番にあった。それは幼くして離れてしまった寂しさと、血の繋がったタケル以外に心を開けなかったことに由来していたのだろう。
久方ぶりに会うたびに、ヤマトの目つきは鋭くなっていった。
タケルが思う以上にあの仕事一筋の不安定な裕明へとついてったヤマトの苦労は大きかったのだろう。
だからこそ、ヤマトの中でタケルが一番でいられたのだ。
それに細い笑みを浮かべていたタケルの前に、嵐のように現れてヤマトの全てを攫っていったのが、太一だった。
深く、強く、結びついてしまったふたりを解くことはヤマトと血が繋がっているタケルには容易い。
それでもそれが出来ないのは、ヤマトの悲しむ顔など、苦しむ顔などみたくないからで。

『僕も大概甘すぎだよな…』

いかに太一とヤマトのペアが凄いか京たちに熱弁している大輔をみて、タケルは小さく溜息をついた。
この無邪気な大輔ですらヤマトに恋心をほのかに抱いていて、ときおり大胆な行動へとでれるというのにタケルはまだ、憎むべき血の繋がりに寄りかかっていた。
この繋がりがあるから兄に大切にされはするけれども、けして恋愛としては受け止められないというのに。

「大輔くんは強すぎだよ」
「タケル?なんかいったか?」
「気のせいだよ」

何故、好きな人とその恋人の絆が強いのをそんなに熱弁できるのか。もともと太一は大輔の尊敬すべき先輩だったからだろうか。
否、大輔は心の奥底ではふたりの間に入りきれない事をわかっているのだ。
わかっていて尚、負け試合を太一に挑んでいるのだ。
だから、強い。

『そろそろ僕も腰をあげなきゃ』

タケルの暗雲の中にひとつの強い光が進むべき道を示した。










鞄の中にパタモンを避難させて、水溜りを蹴り上げて飛沫をあげた。
春先の夕立がタケルの上に温かく激しく降りかかり、お気に入りである白い帽子を濡らす。
大輔たちの雨宿りの誘いを断り、この雨の中走りぬけてきたのは自分の醜い心に喝をいれるためだったが失敗したかと小さく舌を打つ。
白の帽子は小学2年の夏、あの冒険から戻ってきた時に寂しくないようにと兄からプレゼントされたもので、以来肌身離さず大切に身につけてきた。
それを兄が覚えているかといったら怪しい所ではあるが、タケルには唯一無二の兄からの愛情のかたちだった。

「タケル!?」

ふと足を止めた先に、大きな黒い傘の下に光る金をみつけた。
自分が濡れる事など気にもせず、ヤマトはタケルに駆け寄り傘を差し出す。
温かいヤマトの存在と比例して、冷たいものが足元へと下る感覚をタケルは見逃さない。
無駄に冷静な自分の頭に嫌気をさせながら、お兄ちゃん、と呟いたタケルをヤマトは自分の家へと有無を言わさず引きずっていった。

「服は全部脱げ、洗っとく。風呂わかしとくから入れ」

てきぱきと指示を出すヤマトの姿はこれが日常的であることを証明した。
タケルだからというわけでなく太一や大輔が濡れていてもこうやって家に招き入れるのだろうと温かな湯の中でタケルは溜息をついた。
ついた溜息は泡となり、消える。
ヤマトへの気持ちがもうすでに手遅れになるくらいに大きくなってしまった事を悟り、タケルは降り注ぐ熱い水に身を打った。

「大丈夫か?タケル」

温かくなった体をリビングに出すと、タケル専用カップにそれ以上に温かなミルクが用意されていた。
ここで太一ならば紅茶なのだろう。ミルクを選ばれるあたり、自分がヤマトの弟なのだということを痛感させられる。
久し振りにきた家をみまわすと、明らかに兄のでも父のでもない雑誌やシャツが散乱していた。
おそらく太一のだろうとタケルは苦虫を噛み潰す。
背を向けながらも温かい愛情のベクトルを向けたヤマトにタケルはひとつの決心をした。



「兄さん」



虚をつかれたかのような顔をして振り向いたその人は、変わらず美しかった。
その美しさを手にいれるために、タケルはいつもとは違う笑みを顔にはりつけてその人を刺すようにみつめた。

「タケル?」

いきなり大人びてしまった弟にとまどいを隠せないヤマトは、握っていた包丁を置き、真正面からタケルと向き合う。
いつもの無邪気さはなく、穏やかな男の笑みを浮かべたタケルをみて、心臓が大きな音をたてた。

「僕ももう子供じゃないからさ、呼び方変えてみようかなって」

それは昔、「パパ」「ママ」から「父さん」「母さん」に変えたように。
その時の気持ちとはかなりかけ離れているけれども、これはタケルの決心の表れ。
兄に弟以上にみてもらうための第一歩。
ヤマトは驚きにいっぱいに開いていた青をふ、と細めてタケルの頭を撫でた。

「そうだな…タケル」

少し寂しそうに、それでもやはり綺麗に微笑んだ兄にいいしれぬ高揚感を感じタケルはほくそ笑む。
口をつけたミルクが、苦かった。


2007/09/17


design by croix
design by croix