■蒼い空の向こう側。
それはあの夏から数えて8回目の夏の話。
今年、彼らは埋立地の向こう側へと車を走らせた。
「さっすが丈さん、安全運転ですねー」
後輩である京が助手席で地図と格闘しながらも、丈の運転の心地よさに酔う。
ハンドルを握る丈もそれに笑いかえす。
「そりゃもう1年は運転しているしね」
父親のであるという大きなそれの後ろにはたくさんの段ボール。
教習所でならった積み荷の上限などとうに超えているくらいに積み上げた。
その隣では窮屈そうに、自分にそれが降りかかってこないようにと必死にそれを抑える大輔がいた。
何故いつも彼はこんな役回りを押しつけられるのだろうか。
笑いをかみ殺しながら京は前方に続くアスファルトをみた。
埋立地の向こう側へと続くその道に反射した光が眩しくて、瞳を閉じた。
『家、出るから』
そう彼が言ったのはこの春、大学進学を機にという名目上だった。
横浜の大学に通うのはたしかにこの閉鎖された空間からは面倒だ。
しかし、示しあわせたわけではないけれども同じ大学の違う学科に通う太一も家から通っている。
はじめ、彼の父親は反対した。それは息子を案じての他に自分を案じた部分もあったのだろうが。
そこが彼は気に食わなかった。
いつまでも自分がいては、父親の心の奥底に沈んだ想いは届かない。
長い間夢見ていたことは叶わない。
だからこそ、かたくなに家を出るといってきかなかった。
なかなか家にいない父親を必死に捕まえては必死に説得を繰り返し繰り返し、ようやく承諾を貰えた時はすでに夏だった。
自分のバイト代で払えるくらいの物件を探して不動産を渡り歩けば季節はどんどん真夏へと移動していて、今となってしまった。
しかし、時期などはあまり大きい事ではなく、彼の企み通りに事は進んでいた。
「それにしても、安いところみつけたなー」
荷物を運んでくれる、という丈たちよりも先に自らの車で新しい住居へと移動していた太一が隣の彼に問う。
横浜という町に住むためには結構良い値段を払わなくてはならない。
しかも、大きい通りに近く駐車場完備であるその5階建てのマンションは築5年で綺麗だ。
太一の隣で彼―ヤマトは金の髪を後ろで縛ってジーンズのポケットから煙草を一本取り出して紫煙を吐き出したあと、その種明かしをする。
「ああ、ここ「出る」みたいだから」
一瞬の空白を置いて、太一の絶叫が町に響いた。
意地悪い笑みを浮かべたヤマトがあまりに綺麗に8月の空に映った。
「出る」と噂されているその新居は綺麗なフローリングでそんな噂はただの噂のように思えた。
「さーて、ちゃっちゃと片付けてビールといくか」
もともと物の少ないヤマトだったから段ボールも5、6個で済んだようで、あとは大きな家具を組み立てればいいという簡単な引っ越しで済んだ。
その少ない荷物のなかから更に必要最低限のものの封を開けてヤマトはあるべき位置へと収納していく。
丈は他のみんなを迎えにいく、と車を走らせた。
大輔と京は買出しと張り切って酒やら菓子を買いにと出かけた。
残されたのは太一と、ヤマト。
キッチンに皿やら鍋やらを収納している自分の向こう側でなにかを必死に書いている太一をみつけて、ヤマトは声をかけた。
「なにしてんだ?太一」
秘密―と、教えてくれない太一に溜息をひとつついてあまり深くは考えずにそのまま作業を続けた。
が、それを何故その時に追及しなかったかをのちのち後悔する事になった。
「おい、ヤマト。外みてみー」
玄関口から太一が自分を呼んだ。
片付けていた風呂用具をそのままに、サンダルを足に引っ掛けて素直に外に出る。
やけに上機嫌で満面の、それは本当に幼い子供がただ幸せを表現するかのように満面の笑みで、太一は扉の上を指さす。
「―っ!太一っ」
そこには。
『石田』と綺麗な明朝体で打たれた横に癖のある字で『八神』と手書きで付け加えられてあって。
ヤマトにはただひとつの企みがあっただけで、二人が一緒に住むわけではけしてない。
太一はまだあの埋立地から2時間ほどかけて大学に通うことを選んだ。
しかし、その隣合わせの苗字がやけに輝いてみえて、ヤマトは胸に湧き上がるそれになんと名をつけていいかわからなかった。
「ちゃんと俺、ここにくるから」
安心してな。
けして向かい合わせの家でなくとも、帰る家が違っても、
遠くない未来には一緒にいることを脆い言葉で約束する太一にヤマトは背を向ける。
ヤマトの企みに太一はふたつ返事で賛同した。
それは、自分たちの距離を大きく裂いてしまう企みではあったけれども。
『親父はまだ、母さんの事が好きなんだよ』
幼いころから一緒に居たのだから、ヤマトの家庭環境はわかっていた。
テレビ局の責任者である父親が忙しいからこそ、ヤマトが主婦顔負けの家事を出来ることも。
そんなヤマトが居なくなれば、はたして父親はどうするのか。
彼が選べる道などひとつしかなかった。
そして、そんな彼を心配する人物も、ひとりしかいなかった。
『俺が出ていけば母さんは親父の世話をしにくる』
ヤマトの読みは綺麗に当たる。
彼が家を出ることを知った奈津子は慌てて大きなタッパーをたくさん抱えて彼のマンションへと急いだのだから。
それは、少しではあるだろうが彼らが素直になるきっかけにはなるだろう。
どうか、ヤマトが思い描いた未来が実現されるようにと太一は願った。
ヤマトは家族への思いが大きい。だから、今は太一と一緒に住むことを自身に許さなかった。
それでも、太一と離れたいなどとはけして思っているわけではないことを太一が一番よく知っている。
「ばーか、今はちゃんと親孝行しとけっ」
だからこそ、ヒカリちゃんにもな、と続けるヤマトの声は震えていてその瞳から溢れた雫には気づかないふりをした。
そしてなによりも、表札の二つ並んだ苗字を消さない彼に言い知れない愛しさを感じて。
太一は力いっぱい抱き締めた。
それから30分後。
帰ってきた丈に、大輔に、京に表札をみて笑われたのは言うまでもない。
そして、あとから来たタケルに嫌に不安にさせる笑顔を向けられたのも。
そして、なによりもあの夏のように青い空に笑った黄色いパートナーを。
太一はすべてを受け止めた。
2008/08/01